ホームに戻る

Tosastudy

お知らせはこちらから。
範囲
インド史の続き
・中国史(夏,殷,周,秦,前漢,新,後漢)


インド史
グプタ朝
チャンドラグプタ1世
 北インドを支配
チャンドラグプタ3世
 東晋の僧法顕(「仏国記」を執筆)
ナーランダー僧院
 玄奘義浄も学ぶ
ヒンドゥー教(シヴァ神ヴィシュヌ神の信仰)
マヌ法典の完成
 (各ヴァルナの権利・義務を規定した生活指導書)
マハ―パーラタ,ラーマーヤナ
サンスクリット語公用語化
カーソダーサの戯曲・シャクンタラー
 (チャンドラグプタ2世の宮廷に仕える)
エフタルにより衰退

ヴァルダナ朝
ハルシャ=ヴァルダナ
玄奘(大唐西域記)を厚遇

ラージプート時代
(王の子ラージプートと称して抗争)
義浄南海寄帰内法伝
中国史
・歴代王朝(太字は統一王朝)
(夏→)殷→西周→東周→前漢後漢→魏呉蜀→
 西晋→東晋+五胡十六国→(南北朝)→→(五代十国)→
 北宋→南宋+金→
詳しい地図を見たい場合はこちらをクリック
①成立期,②最盛期,③斜陽期についてや滅亡要因について。


中国文明の成立
黄河流域は黄土地帯(黄砂の原因)
畑作が盛んな農耕文明が成立。
仰韶文化      竜山文化
彩陶,黄河中流域 ⇔黒陶,黄河下流域
            灰陶,城郭都市
長江流域でも河姆渡文化など稲作中心の農耕文明成立
↓次第に...
(村落~城郭都市,様々な規模の住居区の総称)の成立
大邑(有力な邑)が他の邑を服属させ,王朝国家が成立


伝説上の王朝。禹が舜から王位を譲られて成立。(禅譲)
17代471年続き,殷の湯王に滅ぼされたとされる。(放伐)
禹についてはこちらの記事の系図を参照されたし。
最後の王・桀は周の湯王に討たれる。
↓鳴条の戦い

大邑であったが他邑を服属させて作った
邑の連合体。確認される遺跡は殷墟
甲骨文字が刻まれた亀甲や獣骨
青銅器の使用
最後の王・紂王は周の武王に討たれる。(放伐)
↓牧野の戦い
西
封建制を導入。
系図を重んじ(アジア初),周王を本家とする一族支配。
また,家臣には封土(=邑)を与え,
貢納・軍役を求める代わりに自治を認める。
直轄領は首都である鎬京のみで,
この関係性を世襲制とする。
王や諸侯はけい,大夫たいふ,
宗族(王家=本家,諸侯・卿・大夫・士=分家)
↓犬戎の侵攻を受け洛邑へ東遷
・春秋時代
有力諸侯覇者尊王攘夷を唱え
主導権争いを始める(春秋五覇斉の桓公,晋の文公)
↓晋の分裂(→趙・魏・韓)
・戦国時代
下剋上・実力主義,諸侯は王号を称する
戦国七雄燕,斉,楚,秦,趙,魏,韓
↓政王による統一

中国初の統一国家とされる。
詳しくは後述参照。

諸子百家の登場
儒家:孔子(魯出身,春秋末期)
(他者に対する親愛)を以て
平和な社会秩序が完成するという思想。
は「」,「」によって完成する!
孔子の言行録「論語」は有名。
孟子:戦国中期,性善説
 王道政治(仁義の徳に基づき人民を幸福にする)
 放伐による易姓革命を容認
荀子:戦国末期,性悪説
 「」に基づく教育・習慣を!
法家:に基づく社会秩序の矯正
 商鞅しょうおう:秦の孝公に仕えた。
 韓非かん ぴ :荀子門下生で,李斯により投獄,自殺。
 李斯 り し :秦始皇帝に仕えた。韓非と同門。
墨家:兼愛非攻を唱えた。
 戦国初期の墨子により提唱。(Love&Peace)
道家:による無為自然を説く。
 の哲学化と共に老荘思想と呼ばれる。
縦横家:外交コンサルタント。
 蘇秦:趙王に合従策がっしょうさく(六国の連合で秦に対抗!)を説く。
 張儀:秦王に連衡策れんこうさく(各国と秦がそれぞれ同盟)で↑を破る。
兵家:兵法や戦略。軍事顧問。
 孫子:春秋時代の呉の孫武と戦国時代の斉の孫臏の2人のこと。
 呉子:戦国時代の衛の兵法家,魯や魏に仕え,最後は楚の宰相。
名家:論理学。
 公孫竜:名(概念)と実(実体)の関係を論理的に分析。
陰陽家:自然のバランスについて。
 鄒衍すうてん:陰陽おんみょう五行説を唱える。
  →自然界は五行(木火土金水の5要素)で成立している!
   自然の変化は陰(●)と陽(○)の交替
農家:農業の重要性を説き,君民平等も辞さない。
 許行:君主も民も農耕せよ!

春秋→戦国期にかけて...
鉄製農具牛犁耕ぎゅうりこうの普及
→農業生産力の高まり→分業
→都市の商工業発達(富国強兵政策もこれを促進)
→貨幣経済の発達
刀銭,布銭,円銭,蟻鼻銭etc...
 (青銅貨幣の流通 Ex.秦の半両銭)

春秋:孔子編纂とも。春秋時代の名の由来。
詩経:中国最古の詩集。
儒学の経書-四書五経
四書:大学,中庸,論語,孟子
 南宋の朱熹が根本経典とする
五経:易経,書経,詩経,礼記らいき,春秋
楚辞:楚の王族屈原の詩歌を集めた。漢代に編集。

秦の統治体制
孝公:渭水流域の咸陽に遷都
法家の商鞅:能力重視の人材登用と整備
↓秦始皇帝の中国統一(BC.221)
皇帝号を初めて使用。
~始皇帝のやったこと~
郡県制の実施
(中央集権化!)
度量衡,貨幣(=半両銭),小篆文字
焚書坑儒(李斯の進言)
始皇帝陵の兵馬俑,阿房宮造営
匈奴の攻撃,長城の連結・増設
南方3郡の設置(南海郡etc)
↓始皇帝死後...
陳勝・呉広の乱(初の農民反乱)→鎮圧
項羽・劉邦の挙兵
↓項羽自害後...
劉邦(高祖)の前漢建国
対・匈奴:冒頓単于ぼくとつぜんうに敗れる
郡国制の統治
→封建制(周)×郡県制(秦)。
 一部は直轄領(郡県制)とするが,
  残りは封土(封建制)とする!
but.景帝期には呉楚七国の乱があり,実質郡県制。
武帝:前漢全盛期を築く。
対・匈奴:張騫を大月氏に派遣,匈奴挟撃作戦!
 結果 :西域の情報入手。
     →敦煌郡とんこうぐんなど設置。
     更に大宛遠征(汗血馬入手!)
南ベトナム:征服!9郡設置(日南郡etc)
衛氏朝鮮 :征服!4郡設置(楽浪郡etc)
but...財政難!
増税→豪族伸長を促す結果に
専売(塩,鉄,酒の3種)
 均輸法:特産物を税として入手,不足地へ転売
      (無料GETで売りつけて供給量調整!)
 平準法:漢は物価安で買い,物価高で売り。
      (物価を保ちつつ儲けていくスタイル)
前漢
武帝の対外積極策で
財政難を引き起こし,増税で豪族伸長。
中央では宦官外戚による帝権掌握
豪族も台頭!

新・(外戚,名目上の禅譲,史上初の帝位簒奪)
赤眉の乱(漢のシンボルカラーの反乱)。
劉秀豪族とともに打倒。

後漢
武帝(=劉秀)
倭の奴国王に金印を与える
班超:西域都護に任命さる。
   部下・甘英大秦国(=ローマ帝国)に派遣
大秦王安敦の使者,海路で日南郡に。
 (マルクス=アウレリウス=アントニヌス,哲人皇帝?)
宦官外戚の対立構造に
官僚(from 豪族)が入り乱れ,三つ巴状態
党錮の禁:宦官→官僚の弾圧

宗教
五斗米道:張角による。
黄巾の乱の中核となる。

武帝以後の漢朝農民の変遷
重税に苦しむ
②耕作地を抵当にして借入,返す充てもなく押収。
③土地が増えたので小作人や奴婢を。供給源は②。
④経済力を基盤に郷挙里選で中央進出

漢代の学問
儒学の官学化・奨励(by 董仲舒の建言)
五経の制定,訓詁学の発展
 (鄭玄が大成)

の発明(正確には安価化)
宦官・蔡倫が製紙法を改良

歴史書
司馬遷:「史記」
 紀伝体を創始(本と列)で記述,前漢武帝代。
班固:「漢書」(班固は班超の兄)

魏晋南北朝時代
~概略~
魏建国により三国時代(魏呉蜀乱立)
 220,曹丕(曹操の子)が後漢献帝から禅譲。
死せる孔明生ける仲達を走らす。
魏が蜀を滅ぼす。
 263,劉禅降伏。
魏で司馬懿の孫・司馬炎に禅譲(簒奪),西晋建国。
 265。
西晋,呉を滅ぼし統一。
 280,呉帝孫晧降伏。
匈奴侵入,西晋滅亡。
 316,前趙が司馬
五胡十六国と東晋の時代。
 304~439,前趙~北魏。
東晋滅び,宋斉梁陳(南朝)と北朝(↓)が争う。
 420,東晋恭帝から禅譲(簒奪)。
北周の華北統一。
 577,北斉を滅ぼす。
北周静帝から隋楊堅に禅譲(簒奪)。
 581,楊堅は北周皇族を殆ど根絶やしに。
隋楊堅,陳を滅ぼし中華統一。
 589,中華統一。科挙を考案。
隋煬帝,滅ぼされ唐建国。
 618,隋3代・恭帝侑の禅譲。科挙実用化。

概略図
三国時代| 五胡十六国時代 |   南北朝時代
 魏  |  五胡十六国  | 北魏→東西魏→北斉周
蜀 呉 | 東晋(南遷漢民族)|  宋→斉→梁→陳
  西晋の統一   東晋,宋に帝位簒奪さる

各国の豪族への苦慮と政策
九品中正:魏(三国)。中正官が豪族と結び付き,
  「上品に寒門なく下品に勢族なし」と揶揄。
屯田制 :魏(三国)。荒廃地の国有化,屯田民を募り
  収穫の50~60%を税収に。
占田法 :晋(西晋)。土地所有制限。
課田法 : 〃 。農民に国有地を割当。
均田制 :北魏。土地を支給し税徴収。
     奴婢や耕牛にも割当。豪族にも有利。
府兵制 :西魏。均田制で土地を支給された農民から
     徴発する。兵役中は免税。

仏教(大乗)がシルクロードから入る。
道教(仏儒と並ぶ中国三大宗教)の成立

後漢滅亡後...
黄巾の乱(鎮圧される)
→群雄割拠に逆戻り
曹操劉備・孫権連合に敗れる

曹操の子曹丕は後漢孝献帝から禅譲(簒奪)。
魏 洛陽を都とし,司馬炎が   禅譲(簒奪)で西晋建国。司馬炎は司馬懿の孫。
蜀 成都を都とし,諸葛亮の天下三分の計。
  諸葛亮死後,魏に滅ぼされたが,姜維らは反乱を起こした。
呉 建業を都とする。西晋に滅ぼされる。
  建業が建康(現:南京)となる理由:313年に西晋皇帝の諱により改名。

北魏
鮮卑族の拓跋氏が皇帝家。
太武帝が華北統一。
 道教国教化,仏教弾圧(法難①)
孝文帝漢化政策
 洛陽遷都,鮮卑語禁止etc。
 →反発を招き,東西魏分裂のきっかけに。
北周(西魏の後釜)が華北統一
 外戚楊堅により禅譲(簒奪)。
の楊堅が陳を滅ぼし中華統一。




inserted by FC2 system